宇野千代論16 まとめ

前書に示した通り、宇野千代ができそこないのモダンガールになったのも、雑誌を編集するのも、服を作り始めるのも、自伝を書くのも(本論で何度も登場する「模倣の天才」の原題は「文学的自叙伝」である)、会社を立ち上げるのも、この昭和‐戦前にかけてであり特にハイライトとなるのは東郷青児と結婚する1930年である。彼から学んだのは省略する、ということだった。
そして自分のイメージが完成され、「シック」「粋」と「でこでこ」の対立に気付いたこの期間に西洋の複雑さを日本の伝統的なフォーマットに押し込める、という独自の方法論を確立する。その活力の裏にあるのは自己の抱える前近代性と近代化を推し進める時代とのズレである。彼女はそのズレを洋服と文体を纏うことによって隠す。千代にとっては文体=洋服である。そしてその文体と洋服を「style」という言葉で統合し、それぞれの分野でモード、模倣が生み出す流行を提案した。それが雑誌「スタイル」と文章のスタイルを意味する「文體」である。
また、晩年に於ける千代の着物一辺倒化と自分の体験を基にした幸せエッセイスト化は伝統的な和服を纏うという行為を前者は示し、後者は書きたい様に書く、つまり千代の口語体で書くことを意味している。これは先ほどの時代と自身のコンフリクトの解消という意味で必然であった。彼女は戦後どんどん薄化粧のベクトルへ進んでいくのだ。
こうして宇野千代は昭和‐戦前に完成し、1996年6月10日に亡くなるまで彼女はこのようなスタイルで着物の世界と文学の世界を横断し続けたのである。